06.03.01 五百羅漢の家。(前半)

 
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五百羅漢の家(小田原市)

という名前の仕事が始まりました。
お年寄りのデイサービス、
養護学校の学童保育、
スタッフの事務所
の機能があります。

つまり、
子供達から、
スタッフの若い人から、
じいちゃん、ばあちゃんまで、
全ての世代が入り交じる

大きめの「家」

という訳です。


06.0.3.01 五百羅漢の家(前半)


僕には、二人のおばあちゃんと一人のおじいちゃんがいました。

一人は、佐賀の家で一緒に住んでいた父方のおばあちゃんで、米寿を迎えた後、死んでしまったけど、もう一人の母方のおばあちゃんは、まだ佐賀で元気です。
母方のおじいちゃんは、大学生の時に、死んでしまいました。

実は、近くにひいばあちゃんもいたんです。
だから、僕が最初に出席したお葬式は、ひいおばあちゃんのお葬式でした。小学生だったかな?

そんなわけで、僕の幼少の記憶は、かなり老人と過ごした時間がたくさんあります。


子供の頃は、家にはいつもおばあちゃんがいて、いろんな昔話や戦時中の話をしてくれたし、その家には、おばあちゃんの部屋という、ちょっと不思議な和洋折衷の部屋があって、僕らのファミコン(一番初期型)をその部屋に設置していたこともあり、かなり長い時間をおばあちゃんと過ごしました。

まあ、世に言う、ヨメシュウトメ、みたいな関係も結構子供ながらに感じていて、ヘビースモーカーのおばあちゃんの部屋は、いつもたばこの煙でムンムンとしていて、それも母親的にはイヤだったみたいだし、正月になると、子供に麻雀を教える事も、母親的には、「賭け事を子供に教えるなんて・・・。」と気にいらなかったみたいだけれど、僕は、別にいいじゃん、と思っていました。

もう一人の、母方のおばあちゃんは、佐賀市内で駄菓子屋をやっていて、こちらは、母親がパートに行く時に、いつも預けられていました。佐賀では、市内に出かける事を

「マチにいく。マチにいくばい。」

というのですが、こっちのおばあちゃんの家に行く事は、マチに行く事につながるので、それも楽しみだし、さらに、駄菓子屋なので、おまけのカードとかを、こっそり(あからさまに)もらったり(盗んだり)、スクラッチのくじをおばあちゃんの目を盗んで削りまくる(ごめんなさい・・・。)という、子供にとって天国のような場所だったので、行くのがとても楽しみでした。

こちらの家には、おじいちゃんもいて、おじいちゃんは、休みになると、いつも一人で、自転車で競馬に出かけていってしまうので、あんまり遊んだ記憶はないんだけれど、戦争にいった人なので、おしりに鉄砲で撃たれた後があり、親指くらいが入る穴が開いていたのを、お風呂に一緒に入るたびに恐る恐る眺めていた
のを良く覚えています。


思春期にはいり、佐賀なんて飛び出してやるっ、オラ東京さ行くだっ、と思い始めてからは、あんまり話しもしなくなったけれど、
僕が無類の漬け物と日本茶好きに育ってしまったのは、完璧に彼らの影響だと思っています。

上京して、少し大人になった頃から、またおばあちゃんに会うのが、帰省する楽しみにもなりましたが、そんなに頻繁に帰る事もできず、ノノが産まれて、しばらくして佐賀のおばあちゃんは死んでしましました。


僕は、最後に見たおばあちゃんの顔を忘れられません。
実は、死ぬ2年ほど前から、足腰を悪くしたのを境におばあちゃんはボケてしまって、入退院を繰り返していました。 戦争を兵隊の妻として経験し、早くに夫を亡くしたおばあちゃんは、明るいけれど、いつも厳しい顔をしていました。マントヒヒみたいな・・・・。

もちろん、年と共に増えるシワがそう見せたのかも知れませんが、どちらかというとやっぱり厳しめの顔でした。マントヒヒみたいな・・・・。

そのおばあちゃんが、ボケてしまってから、老人病院に入院し、併設されたデイサービスにお見舞いに行った日の事。車椅子にのって、みんなと体操をしている顔は、それまで一度も見た事のないような晴れ晴れとした、とても血色の良い顔でした。

ニコニコと笑い、楽しそうなその顔は、まるで、それまでの88年間の苦労が全て吹っ飛んだような、全てから解放された若々しい顔だったんです。たぶん、僕の事も分からなかったと思いますが・・・。

自分が死ぬに当たって、ボケてしまって、遺言も残せず、準備もできない事は、もしかしたら少し悔いが残ったかも知れません。しかし、それ以上に、死ぬまでの数ヶ月でも、いろんな苦労をすっかり忘れて、まるで、赤ちゃんのような顔で笑って過ごせた事は、幸せだったに違いない、と僕は思っています。



さて、話はかなり飛びますが、
僕が独立して、最初に設計を依頼して頂いた「酒井さんの家」。

この仕事は、コンペだったのですが、要項に、「40代の姉弟、と75才の母」と記載されていました。
そして、「この家では、一切の家事を75才の母がやります。」とも書いてありました。

僕は、それまで1つも住宅を設計した事がありませんでしたが、75才のお母さんの事ならわかるぞっ、と思いました。何せ僕は、おばあちゃん子です。

「お母さんの家」

と名付けた図面を提出して、全然自信はなかったのですが、なんとか面談に選ばれ、はじめての設計契約を結んで頂いたのです。
ある時、たくさんの案の中で、何で僕を選んでくれたのかを聞く機会がありました。その時、

「若くて、経験もなくて、図面も未熟で、そりゃみんな不安だったわよ。でも私達の新しい家に、
 お母さんの家、という名前を付けてくれた人に、とても会ってみたかったのよ。実は・・・・。」


と言って頂きました。

だから、もし僕が佐賀でおばあちゃんと暮らしていなかったら、
独立できてなかったかも?と本気で思うのです。



おっとっと、、実は、まだ本題に入ってないんです、、、、。


(後半につづく)